14、バンダバーグ

さて、賑やかなサーファーズパラダイスを後にし、次に私がやってきたのはバスを何時間も乗り継いでやっとたどりついたピッキング(泥棒じゃないよ)の町“バンダバーグ”。ブリスベンから北西300`。当時は全く知らなかったけど、どうやらこの町はフルーツピッキングで有名な町らしい。私が予約したのは“バックパッカー”と呼ばれる長期旅行者用の宿だ。若者たちの間では“バッパー”と呼ばれている。キッチンがあり、部屋はドミトリーと呼ばれる相部屋式でベッドが4つとか6つとか入っている。ここで仕事を分配してもらうのだ。早い話が住み込みの日雇い労働だ。でも若者ばかりが集まっているので悲壮な雰囲気は微塵もない。サマーキャンプみたいな感じ?
この時期はトマト、かぼちゃ、さつまいも、きゅうり、すいか、とにかくいろんなものが収穫期を迎えていた。私は日本人ばかりの6人部屋に案内された。皆が出かけた後の部屋に案内される。生活感溢れる主人不在の荷物を眺めながら、一体どんな人たちがいるんだろうと、半分不安にそして半分はどきどきしながら自分の荷物を開けその部屋の住人になる支度をする。午後2時を過ぎた頃、静まりかえっていた屋敷がとたんに活気を取り戻す。皆が仕事から帰ってきたんだ。勢いよくドアがあき、20代前半らしい小柄な女の子が一瞬「あれっ?」という表情をする。誰もいないと思っていた部屋に知らない人がいてびっくりしたんだろう。
「こんにちは」
挨拶をするとすぐに打ち解けた。一人旅、しかもドミトリーは人の出入りが激しい。
どうせ短い付き合いだから、と関係を作るのがめんどくさい時もあるけど、やはり狭い部屋で寝食を共にするからには一期一会であろうが仲良くしておきたいものだ。4人で全員だったが狭い部屋でボーイフレンドの話や噂話などをしていると、まるで女子寮のような、何ヶ月もそこで一緒に暮らしているような気分だった。
仕事はバッパーが各農家から人員を要請され、適当に振り分ける。夜、掲示版に割振り表が出させると皆一斉に集まり、まるで受験の合格発表のように自分の名前を探す。仕事があればいいが、そうでなければだたっぴろい宿で暇な時間を過ごすことになる。何よりも辛いのは人が汗水垂らして、超充実感溢れた顔で帰ってくるのに、自分は何もしていないこと。収入がないとかいうのよりも若い体力を持て余し、その虚無感の方が辛い。仕事がアサインされた人は
「さっ、明日は忙しくなるわっ」
ってな感じでクモの子を散らすようにさーっと皆一目散にキッチンへ走り明日のランチのサンドイッチを作って、ベッドへと急ぐ。仕事がない人はまるで「何かの間違いだ」というようにいつまでもぼーっと掲示版を眺め、遅くまでロビーに居残り深夜番組を見る。この時点で空気は完全に勝ち組、負け組に分かれる。これもたまに仕事がないなら「ゆっくり寝れていいや」と自分に言いわけできるが、あまり続くと宿のおばちゃんに文句の一つも言いたくなる。ほんとにお金がなくて深刻な人はもっと稼げる、収穫のある土地を求めて宿を去るのである。

仕事がある日は朝の4時半起床。シリアルに牛乳をぶっかけ急いで朝食を済ませると5時発の車で皆それぞれ割り当てあれた農家へと仕事にでかける。20人乗りぐらいのバンで20分ほどかけて農場へ行く。私は最初さつまいも農家へ連れて行かれた。農家から畑まではピックアップトラックの荷台に乗り込む。ガタガタと揺れるトラックの荷台にひざを抱えて体育座りなんてした日にゃあ、気分は“ドナドナ”状態だった。(知ってる?ドナドナド〜ナ〜ド〜ナ〜っていう超暗い歌。内容はよく知らない。多分ヤギがどこかに売られる歌?)。

腰をまげていもつるを植え込む。さえぎるものが何もないのでオーストラリアの灼熱の太陽がぎらぎらと容赦なく照りつける。本当に暑い。中腰に疲れ、ふっと腰を上げると鳥の鳴き声以外はなにも聞こえない、雲ひとつない青空と延々と続く芋畑があった。
「あ〜、オーストラリアに来たんだ・・」
と実感することができた。同時にほんとに畑以外何もない超ど級のど田舎に、あくまで「経験なんだ」と言い聞かせ、こんなところに生まれなくて良かった、と大げさかもしれないが、そんな恐怖感さえ沸き起こった。農民の皆さんごめんなさい。
昼は持参したサンドイッチをかじる。一緒に働いていたドイツ人の女の子は人参を生でかじっていた。おいしそうにボリボリとほおばる姿を見ているとこっちまでなんだかつられて野菜を生でかじりたくなってきた。
さつまいもの収穫が終わり次に私が配属されたのはトマト農園だった。またこのトマト農園の女ボスがすごかった。典型的なレズビアン。髪を短くかりこみ、がっちりと太った、でかい女。ボーイスカウトのような半ズボンのカーキ色の制服をいつもきており、右目は事故にあったのか赤く充血していた。
馬鹿でかい農場でのトマトの収穫は巨大なマシーンで行った。知ってた?トマトは背の低い垣根になっている。それが何列もづらりと並び、それが延々とかなたまで続いていた。巨大なクレーン車のようなものを想像して欲しい。このクレーンの先はショベルの代わりにイスがついている。ここに人が座る。さらにクレーンは6つ股である。6つ股の巨大手長クレーン車である。垣根と垣根の間にそれぞれ6つ手がだらりと伸び、そのままゆっくりと前進する。こんな感じの説明で分かるかしら?ちょっと難しい。とにかく私たちはこのおろされたクレーンの先端に座り、目の前の垣根からトマトをもぎとり続けるのである。クレーン車はゆっくり進むが、無数になるトマトを全てもぎ取るのは容易ではない。採り損ねてもクレーンは進む。
ところがボスはそれを許さない。後ろからゆっくりとついていき、クレーン車が通ったあとの垣根をチェック。
取り残しが多いと、仕事をはじめて10分だろうがなんだろうが、肩をぽんぽんとたたかれ一言
「ゴー、ホーム」
容赦なく返される。文字通り“肩たたき”。
さつまいも農園のような家庭的なあたたかさは微塵もない軍隊のような農園だった。みなびくびくしながら働いていた。
ところが私の仕事はちょっと違った。クレーン車は3台あり、各クレーンに一人その上に乗る役目をする人がいる。運転するわけではない。皆が下でせっせこ、せっせこもいだトマトはベルトコンベアーでそのまま車の2階(?)まで運ばれてくる。これを良いトマトか悪いトマトか分けるのである。悪いトマト、つまり穴かあいてるとかまだ青いとか、そういうものをポイポイ捨てていくのだ。上の仕事は下と違ってラクだ。泥もつかないし、クビになる心配もない。屋根があるので強い陽射しにくらくらすることもない。同じ時給でその労力のあまりの違いに皆が上の仕事に憧れた。なぜこのお役目に使命されたか?おそらく、まわりの日本人よりも少し英語が上手だったからだろう。ワーホリにくる日本人は本当にみな英語ができない。ここにくるまで外国人と話したこともない、という人がほとんどだった。機械の説明をする上である程度の理解力は便利だったようだ。しかし、皆がうらやむのとは逆に私はこの仕事が大嫌いだった。まず、あまりに楽すぎていつも睡魔に襲われた。そして何よりも楽に金を稼ぎにこの国に来たわけではない。金だけ欲しかったら日本で稼いだほうがよっぽど効率がいい。泥にまみれて“農業”がやりたかった。いい汗かいて「あー疲れたね〜」とかいいながら、仕事上がりに仲間と冷たいビールを飲むのが最高に好きだった。しかし、これでは間違っても「疲れたね〜」なんて言えない。下では同じ時給で5倍くらいの過酷な労働をしている人々がいた。そんな彼らを私はうらやましく見下ろしていた。ホコリまみれになってトマトをもぎたかった。下に戻りたかったが、毎日毎日ラクな仕事をやらされ続けた。こんな日々を送るのは時間の無駄だ、何しにオーストラリアに来たのか分らない。日に日にフラストレーションが募ってくるようになった。
1週間くらい経っただろうか。いつも通り朝の役割分担で
「アキコ、上」
「ピッキングやらしてくれないの?」
皆の前で思い切ってボスに聞いた。彼女は興味なさそうに「NO」と一言。
「じゃあいいよ。帰る」
そういい残し、送ってくれた車でそのまま宿へと引き返した。午後皆が仕事から戻ってくると一体全体何があったんだ??と質問攻めにあった。「むかつく女だから帰った」というと、数人の男の子が「ヒュー」と口笛を吹いた。
ところが翌日。母親代わりで宿のオーナーでもあるお母さんに呼び出された。トマト農場のボスが、もし私が戻りたいならまた帰ってきてもいいという。これには驚いた。人を虫けらか奴隷のように扱っていた人だったのに。しかもただのワーホリだ。鬼軍曹のようなあの人が「帰ってきてもいい」だと?私はびっくりした。日本人に逆らわれたのは初めてだったのだろうか?お母さんから「彼女だって農場を経営しなくてはいけないのよ。生活がかかってるんだからトマトを取り残すようなことをされたら首にするのは仕方ないのよ」と諭された。確かに遊びやボランティアでやってるのはこっちの方だった。向こうは生活がかかってる。私たちはただの通りすがりのちょっと豊かな国からきた生意気な若造だった。少し反省した。

私のライフサイクルはというと、農家は朝が早いので仕事は2時までには終わる。帰ってくるとその足で近所のプールへ行った。田舎町の市営プールは安いし平日はがらがらだ。軽く泳ぐと向かいのパブへ足を運ぶ。宿で仲良くなった連中が誰かしらジョッキをあおっていた。お気に入りのつまみはチップス。日本でいうところのポテトチップスではない。オーストラリアではフライドポテトのことを“チップス”と呼ぶ。欧米ではフレンチフライかな?これにグレイビーソースとチーズをかけたものがご馳走だった。こくのあるチーズとグレイビーがまたよく合う。ビネガーもあったけど、やはりグレイビーが一番人気。外国人も日本人もみんなの大好物だった。ものすごいハイカロリーなんだろうけど、野良仕事でカロリーを消費しまくった私たちには関係なかった。大きなボックスで売っているので、一人が買うと自然と人がまわりに集まってきて、みんなでつまんでおしゃべりした。
5時頃早い夕食。そこの宿はなんと50人くらいの人が同居している巨大屋敷のようだった。キッチンもホテルの“厨房”のような広さだったが、50人の人間が一度に入るとガスコンロの取り合いになる。なんでも時間差で動くのが賢いやり方だった。
この巨大キッチンでの話題はこと欠かない。
ここには多数のフライパンや鍋などの調理器具が置いてあり、各自勝手に使って洗って戻す。洗い場には
「ここにはお母さんはいません。自分のものは自分で洗いましょう」
という張り紙が各国の言葉でしつこいくらいに貼り付けられている。お国柄で特徴があるのもおもしろい。日本人は「ずーっとキッチンにいる」と言われた。時間をかけて調理するということだ。ドイツ人はなんでもかんでも細かく細の目切りにしていた。

世界各国50人からの人間が共同生活をしているとやはり常識や秩序、といったルールが非常に大切。ところがこういったことを守れない人ももちろん多い。私の友人は鍋に油をひいて温めておき茹であがったパスタをそこへ移そうとしたら、おもむろに横からドイツ人の女の子がそのフライパンへ「バサッ」と自分のパスタを放り込み、当たりのように調理した。彼女はざるにあけられた、パスタを片手にしばし固まったという。
中央にある大きなテーブルに切った食材やら調味料を並べて、背をむけてコンロで調理し、くるっと振り返ると何かが無くなっていた、なんてこともあった。こうした小泥棒が横行していたので、キッチンは戦いの場。油断も隙もなかった。
また日本人はほとんどの人がきちんと米を炊く。鍋にお米をいれ、そのまま弱火でしばし放置。できたころに戻ると、外国人の女の子がなべの蓋をあけ、ホカホカの炊きたてご飯をスプーンですくっていたという。驚いて声をかけると、向こうもびっくり振り返ったが、
「ソーリーッ」
と、明るく笑ったという。
ちなみにこの子、私は同じ農場で働いていたのでよく知っているが、ちょっと天然ボケの入った不思議少女だった。悪意のある行動だとは思えないけど、それが災いして彼女はしばらくしてから自分の食料を一切がっさい全て盗まれ、ショックで宿を出て行った。
私たち宿泊者には各自、専用プレートとカップがプラスチックのボックスに入れて支給される。この箱に食料をいれて、巨大冷蔵室に野菜やら牛乳やらを閉まっておく。しかしこの冷蔵室が盗難の巣窟だった。まあ、盗まれる盗まれる。もう盗られるのを覚悟でしまっておいた方がいい。牛乳、卵、マーガリンは当たり前、ひどい人は翌日のランチ用につくったサンドイッチを盗られ、バースデー用に買ったホールサイズのケーキまで無くなったりした。これには業を煮やした宿のお母さん召集でバックパーカー会議が開かれた。
小学校の道徳の時間みたいに全員がロビーに集まり、誰だか分らぬ犯人に
「お腹が空いたんなら、私のところに来なさい。ビスケット一枚取ってもそれは犯罪なのよ」
と、諭した。

ワーキングホリデーはイギリス人、ドイツ人、日本人、韓国人でそのほとんどの割合を占めていた。宿にはもちろんあらゆる人種が混合していたが、言葉は通じないが、やはり同じアジア人だからか、日本人と韓国人が仲良くなる率が高かった。最近はヨン様を筆頭に韓国男性ブームだが、私はそれよりも前に韓国男性の人気の秘密を知っていた。彼らには“男気”がある。日本人ととても似ている韓国人だけど、決定的に違うのは彼らにはいまだ兵役があるということだ。日本人から見ると、まるで戦前のようなお話だけどこれ本当。だから兵役済みの男の子はとにかく体ががっちりしている。
そして精神的にも人間的にも鍛えられており、人情深く、熱い人種である。個人差はあるだろうけど、少なくとも私がオーストラリアで出会った韓国人男性は皆、魅力的だった。

ところで「ビューティフル・プラネット」を読んだ人は私がいかに恋愛体質かを知っている筈。これだけ年頃の男女が共同生活をしていれば、そんな話の一つや2つ。確かに、旅行者同士で恋が芽生える場面も外国人、日本人関わらず、多々見受けれらた。今回も何かネタはないのか?と期待してるかも(?)。ご期待にもれず、ここでもちょっとしたことがあった。私のせいではないが、あるイギリス人の男の子から思いを寄せられた。向かいのバックパッカーに住んでいる子だ。確か20歳前半くらいだったと思う。名前をトーマスといった。ところがこのトーマス君は頭の中かがかなりぶっとんでしまっていた。変わり者なので皆近よらず、どもりがちでえらい早口で話した。格闘技が大好きでブルース・リーを崇拝しており、話すことといえばブルース・リーの話ばかり。霊が見えるんだ、と時々おかしなことをいった。自分が農場でもいできたプラムをよく持ってきてくれたりしてやさしい青年だったが、気味悪かったのでその気がないことをはっきり伝えた。しかし、その後も宿の前で待ち伏せされたり、宿の住人を入り口で捕まえては私を呼び出させたり、しばらくはうかうか外を歩けなかった。サーファーズパラダイスの変態親父といい、このブルース・リー霊能青年といい、私は、“まともな男は寄ってこない”いう星の下にいるのか??


この宿に一ヶ月ほどいたが、これは私のオーストラリア生活の中で一番輝ける時であり、一番たくさんの人と話し、出会い、勉強をした時期だった。
大きな宿だったので当然いくつかのグループができたが、基本的にみな一人できている世界各国の若者たちだった。全体的に皆が仲良しで、いい波長を出してる人たちばかりが集まっていた。日本人から外国人からいろいろな友達ができた。金曜の夜は遅くまでパブでジョッキを回しあい、ギターを弾いて歌い、アイルランド出身の若者が手打ちの即興ドラムでビートを刻んだ。せつなくて懐かしくて胸が苦しくなりそうな思い出だ。大変だったけど、その分楽しかった。信じられないくらい泥だらけになり、真っ黒に日焼けし、体をめいっぱい動かして、倒れこむように眠る。そんな過酷な肉体労働は私たちの絆を強めた。
この宿にも多数の日本人がいたが、こういったピッキングに来ている人たちは都市でごろごろしている“ダメ日本人”と全然違った。みな目標をもっていた。お金を貯めてオーストラリアを旅する。ここへ行きたい、あそこへ行きたい。情報交換をしながら目をきらきらと輝かせていた。ビールを飲みながら何時間も将来の夢を語り合った。いろいろな意味で自分で道を切り開こうともがいている若者が多かった。

さて、ピッキング生活もはや1ヶ月。もともとかなり過酷な肉体労働なので、“経験する”という意味ではもう十分だった。
おまけに私は実は農業にむいていなかった。やってみて初めて知ったのだが農薬アレルギーだったのだ。農薬なんてみんなダメだと思うが、私の場合、トマトの木につっこだ腕一面と首にも赤くジンマシンができてただれ、猛烈な痒みを伴った。とまらないくしゃみ、鼻水、涙目。医者へ行き、ジンマシンの錠剤を飲み、軟膏をぬり、くそ暑いのに長袖をきて、ゴム手袋をはめ、マスクをし、めがねをかけ、誰だかわからないくらい完全武装していた。

「やりたいことリスト」の一つを達成した次の目標は“乗馬ガイド”。
宿で知り合った人たちの情報を頼りに次に向かったのは東海岸の北の果て“ケアンズ”。ここで私は残りオーストラリア生活のほとんどを過ごすことになる。

一緒に働いた仲間たち