2,思えばそれは19の春
オーストラリアへ飛ぶ前に、なぜそういう事情になったかを簡単に(←うそ)説明したい。

生まれて初めて海を越えたのは19歳の春。
20歳を目前に10代最後の記念として何かをせねば、と考えた。
「10代最後はこれをやった」ときっぱり言い切れるもの。
何か形として残したかった。
誰もが思い描くように当時の私にも漠然とした外国への憧れがあり、思い切って海外へいくのも悪くないなあ、と思った。極端な性格なので旅行なんて短いものではなく、どうせいくなら休み中、まるまる2ヶ月滞在しようとホームステイを選んだ。ちなみにせっかくだから英語圏。英語といえばアメリカかイギリス。イギリスは寒そうだし。という単純な選択肢の結論だった。余談だが飛行機に乗るのも初めてだったので心配した祖母は私を厄除けのお払いに連れて行ったりして、我が家はちょっとした騒動だった。

さて、2ヶ月後。ホームステイの経験自体は楽しかったが、それがその後“留学”といった知的なエネルギーにそそがれることはまずなかった。
2ヶ月間、サンディエゴのそのまた北の、エンターテイメントも何もないど田舎生活でのフラストレーションは、むしろ私の好奇心と行動力に火をつけた。英語は上手になりたかったが、勉強したいことは何もなく、見たいものは世界だった。

アメリカや英語に対する憧れからは確実にずれてきており、たった2ヶ月のステイで“英語が通じた”という絶大なる自信をもった、超勘違いクイーンの私は、この後休みの度に授業そっちのけで世界中を歩くようになった。

旅には一人で行った。もちろん最初のうちは友達を誘って出かけていたが、そのうち無計画で突発的な私の企画には誰もついてこなくなり、泣く泣く一人で動く羽目になったのが本当のところであるが。
「来週から一ヶ月ヨーロッパ一周しない?」
なんて急にいわれても確かに迷惑な話だ。その辺に「ラーメン食べに行かない?」というのとは訳が違うのである。ところが思い切って一人になってみるとこれがすこぶる快適だった。人が一緒だと必要以上に気を使う私は、一人になったとき初めて自分の内面に集中できた。回りの風景が見えた。自分のまわりに起こるたくさんの感動的な出来事に気がついた。誰かと一緒ではだめだった。ひとりで行くことに意義があり、これは私を大きく成長させるきっかけにもなった。


卒業後、お勤め生活で旅する機会はめっきり減った。当時私は、化粧品の企画という仕事をしており、デザインや企画したものが形となって出てくるのはやりがいもあり、ファッションショーや大きなパーティーなど、華やかな世界への出入りもあったが、なぜかちっとも楽しくなかった。そんなことより早く家に帰りたかった。
この会社では充分な給料をもらっており、130万円で全身脱毛、40万円でエステのチケット、とバブリーな生活をしていた。実家だし、旅行以外に大した趣味もないのでお金は貯まる一方で、また貯める理由もなかった。

しかし、目の前に社長がいるのに自分の意見は上司を通してでないと言えない保守的な社風に窮屈さを覚えるようになっていた。何百人いるという大きな会社でもないのに。そんなまわりくどい掟を破ったある日
「俺の面子も考えろ」と直属の上司に注意された。
「俺がいる意味がなくなるだろ??」
その通り。おまえのいる意味はすでにない。

そのときから全てがアホらしくなった。社長や専務が好きだったので、彼らに認められているその上司を、なんとか長所を見出そうとがんばったがどうやら無理だった。
”ここにいたら潰される”
そう思った。いい会社なんだろうけど私にはだめだった。人には適所適材がある。私の居場所ではない。
同時にその時、“海外へいきたい熱”は再び猛烈に上昇していた。
19歳の時にめばえた興味は、いまだ私の中でブスブスとくすぶり続けており、まだまだ消化しきれていなかった。これに決着をつけるためにも私はいかねばならない。
何がしたいのか、何を見たいのか、何をすれば私は満足できるのか??
不満足症候群だった。28年間、何をやっても誰といても不満で社会の全てに居心地の悪さを感じていた。どこかに私の居場所があるはずだ。そんなことばかり考えてきた。

「日本を出よう。」

この頃から真剣に海外への「逃亡(?)」を考え始めた。見たことないものが見たい、知りたい。私の居場所を見つけたい。私の居場所はここじゃないっ。この安定した生活がとてもぬるま湯のように感じられ、もっともっと劇的な経験がしたかった。

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